愛の日記


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聖書のお話し 2015年11月03日(TUE)

  最近は音楽づいていて、きょうは港ミライホールでやはり先日と同じチェコフィル及び庄司紗矢香さんの演奏会へ。

池田山スタイルで行きました。庄司さんファンの一人として、きょうはサイン会があったので本当はサインしてもらいたかったのですが、時間的に無理だったため、あきらめました。

音楽ファンの勝手な思い入れから、何か妙なことを言ったりしたら申し訳ないと思い、遠慮した面も。

何が言いたかったというと、私は庄司さんがバッハ演奏にこだわっているのを、あくまで勝手にですが感じていて、彼女のバッハを聞くと、自由に演奏できない葛藤を感じてしまうのです。

世紀の大天才バイオリニストである庄司さんに意見などできなくて当然ですが、メンデルスゾーンやチャイコフスキーのときとは違う緊張を、バッハの無伴奏演奏などで感じてしまうのです。

すごく忠実に、深く演奏されているのですが、これでいいだろうか、、、という思いが出す音にベースになって流れているのを私は勝手に感じてしまうのです。

バッハ無伴奏やパルティ―タ、シャコンヌなどを、いずれ庄司さんが世界最高の演奏をすることは、勝手にですが、私は実は信じていて、その葛藤のさなかにあることがわかるのです。まるで精神病のような言い分ですが、ファン心理としてお許しを。

ファンは本当に勝手なことを言うものですが、要するに無責任な思い入れなのですが、庄司さんの生まれた時の星の配置もわかっているので、他人事に思えない、勝手な思い入れがあるわけです。

ご存知、バッハの無伴奏のバイオリンは、西洋のものでもあり東洋のものでもあるという、凄い曲なんです。洋の東西を超越しています。

それは人の意思や思いを超越した無の旋律とも言える領域であって、どうやって演奏しよう、、、との思いが演奏家の中にあるうちは本当には演奏できない、そういう曲でもあります。

いずれ庄司さんが無になりきることは確実で、その時には、とんでもないバッハが聴けるはずです。

来年の6月にバッハ無伴奏のコンサートがあるようですので、本当に楽しみにしています。果たして、どのような演奏になっているでしょうか。

いいですね、、、こうやってファンは勝手なことを言えるのですから。

さて、聖書の話しの続きです。

今回の聖書の話しは、イエスの暴力については後回しにして、有名なブドウ園の話しにいたしましょう。

聖書の中のどの部分のどの個所だったかなどは、確認してませんので、あえて省略しますが、確かブドウ園だったと思うのですが、とにかく農園で働く人の話しです。

農園には朝から働いた人がおり、次に昼ごろから働いた人がおり、さらに夕方近くに来て働いた人がいた、、、、という内容。

当然、朝から来た人が一番長く働いたことになります。次が昼から来た人です。そして夕方に来た人は、ほとんど働いてない、、、そんな状況でしょうか。

そこに農園主が表れて、皆に日当を与えます。朝来た者に、昼から来た者に、そして夕方から来た者に、農園主は同じ金額の報酬を与えたのです。

すると、朝から来ていた人が文句を言いだします。私は朝早くから働いているのに、夕方から来た人と同じなんて、おかしくないか、、、、と農園主にクレームをつけました。

そして、夕方から来た人は、自分はそんなに働いてもいないのに、朝から働いていた人と同じ金額をもらえるなんて、、、と、農園主に深く感謝したのです。

考えるまでもなく、私たちは、朝から来た人の気持ちがよくわかると思います。

しかし、農園主は次のように言ったのです。
「私は朝早くから働いたものにも、遅く来たものにも、同じように支払ってあげたいのだ」と。

こうしたたとえ話しをした後、イエスはこのように語ったのです。「このように、先の者が後になり、後の者が先になるであろう」

天国とはそういうものだ、、、というたとえとしてイエスは話されました。

私はこの話しを中学校の時に聞いて、どうしても腑に落ちませんでした。

優しい農園主が朝から、昼から、夕から働いた者に、同じ金額を上げる、、、そこまでは、農園主のやさしさとして理解できたのですが、そのあとの、イエスの言葉がわからなかったのです。

イエスは、朝来たものより、夕に来たものの方が先になるといいます。

同じなら、私もわかりますが、なぜ、反対にならなくてはいけないのか、、、あまりに不平等ではないかと思ったのです。

すると教会学校の先生が、こう教えてくれました。
公平な扱いをした結果、一生懸命やっていた人に不満が出てきた、、、、一方、ちょっとしか仕事してない人には、感謝が出てきた、、、だから、逆転するのが天国だ、、、というイエスのお話しなんだよ、、と。

頭があまり良くなかった私は、すぐには飲み込めなかったのですが、やっと理解することができました。

そうか、、、これだけやったのに、、、という不満と、こんなにもしてくれたという感謝、、、、だから逆転したんだな、、、、ということがやっと飲み込めたわけでした。

私たちにも、こうしたことはけっこうあると思います。愛情深い人かどうかの判定法として、「こんなにしてあげたのに、、、」という気持ちが全面に出る人と、「こんなことしかできなくてごめんね」という気持ちが全面に出る人では、大きな違いがあると思うのです。

前者は悪の性質を代弁し、後者は神の性質を代弁していることになります。

無理して1万円をあげて、あんなにあげたのに、、、と思うより、1000円しか渡せなくてごめんね、、、の気持ちが神の思いに近い、、、、

私たちの生活のいたるところで、私たちは神にも悪にもなっていることになるでしょう。

あなたは、あんなにしてあげたのに派ですか、、、それとも、こんなことしかしてあげられなくて派ですか。

その違いがイエス様は、天国と地獄の違いでもあるということを、農園主の話しから聞き取れるようにも思えます。

また機会があることに聖書の話しを、あくまで私の個人的な話しとして、話させていただきたいと思います。
 



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