愛の日記


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528Hzのすべて 2015年11月26日(THU)

  次の日曜日は有料セミナーになりますが、528hzのすべてと題して行います。

528hzに関しては、ジョンレノンのイマジンに528Hzベースの音が常に流れているとか、また、太陽が出す音を電子音で聞くとそれが528Hzであるなど、色々言われています。

しかしジョンレノン以前、また太陽の音はおそらくソーホーという太陽探査衛星から来た情報だと思うのですが、そんなに昔のことではなく、528Hzはメジャーな周波数として取り扱われてきたと思います。

私が占星術や、形而上的な世界に入ったのがもう40年も前ですが、その時から528Hzはあったと記憶しています。

その後、チューナーに出会い、チューナーによる癒しのセッションを知りましたが、その際にも、ヒーラーは528Hzのチューナーを重視していた記憶があります。

なぜ、どこから、この音が伝わっていったかを一度きちんと調べてみようと思ったのですが、よくわかりませんでした。

現在、528Hzが過去に増してメジャーになりつつあるのは、先述したジョンレノンや太陽の出す音などもあるにはありますが、やはり、ブレオ博士などの考えが、書籍に発表されたことが大きかったかもしれません。

ホロウイッツ博士が書いた、「ジョンレノンを殺した凶気の調律A=440Hz」のことです。しかしこれは440Hzが問題というよりも、平均律に問題があると考え、純正律によれば、Aが440でも528Hzは得られることになり、440Hzが悪いという根拠が薄くなる構造をしています。

そこらへんがまだあいまいな印象があるのですが、どちらにしても、528Hzが特別な周波数であることは、純正律からも言えるわけです。

528Hzが順正律から得られるのなら、基音Aが440Hzでも構わない、、、とも考えられます。

また、基音Aを今流行の444Hzにすると、上の高い方のドの音が約528hzになるため、そうした調律が流行しています。

ヘルベルトフォンカラヤンは、コンサートホールで演奏する際に、445Hzを用いたという話しです。自然に下がる部分を計算すれば、まさにどんぴしゃりと上のドが528Hzになったわけです。

いずれにしても、色々な工夫をして、528Hzを呼び出す試みが音階形成の中にあることが非常に面白いと思います。

これがどういうことかというと、皆、どこかで528Hzを求めている、、、ということになりはしないでしょうか。

特別な音、、それがかなり以前から528Hzだったのです。この音がどのようにして現在まで生き延び、つながっていたかは不明です。

ブレオ博士はカソリックに通って調べたものの、それを見つけることも協力を得ることもできずにいましたが、神に祈ることで、イエスが夢枕に立つことで、528Hzの秘密を知ることになるわけです。

しかしそのルートとは別に528Hzは自然伝承的に残されてきたことが私には非常に面白く、関心があります。

昔は周波数という考えや振動を把握する方法などなかったと思いますが、糸やゲンの長さで音を保存することはできたと思うのです。

命の音である528Hzも、おそらく糸やゲンの長さによって保管維持されて命を保ってきたのかもしれません。

そして段々とわかってきたのは、この音が古代音階の中心音であったということです。ソルフェジオのMIが528Hzであることが、後になって整合性をもってはっきりしてくるのです。

古代の知恵は、こうした不思議な命をもって世に再現されることがあります。

一部の人の間では有名な、秀真伝という書物がありますが、秀真文字という幾何学的な造形による文字で書かれた古書でした。

その昔、確かうろ覚えですが、まだ秀真伝が世にでる前、この書物は四国の小笠原家に保管されていたのです。

そのことを調べたのは、秀真伝を世にだした三浦さんという方だったと思います。間違っていたらごめんなさい。

確か、大手出版社にお勤めされたのち、行者のような感じで山登りをされていたと聞いたことがあります。その際に、小さな祠の前で休んでいると、この神の由来がわからないだろう、、、というようなメッセージを受け取るのです。海外のことばかり学んでもしかたないぞ、、と。

それから確か三浦さんだと思いましたが、三浦さんは秀真伝に行き着き、その古書が四国小笠原家に残されていることを突き止めます。

その夜、はやる気持ちは小笠原家に電話をしたらしいのですが、その際に、小笠原家の方は、電話口で泣きだされたと。

「古来から伝わる大切な書であることはわかるのですが、どう扱ってよいかもわからず、保管するにしても、虫は喰い、このままでは荒れ果ててしまう、、、それでは先祖にも申し訳が立たないので、明日、お焚き上げする予定でした」

こうして、秀真伝は明日この世からなくなるという前日の晩に生き延びることができたのです。

一人の必死な思いと追求の努力によって、秀真伝は世に残ったことになります。またそれは、書物に命と力があったからとも言えるでしょう。

528hzも同じような構造の元に、イノチを長らえ、現代に再びクローズアップされてきていると思います。

日曜日の528Hzセミナーでそこらへんのところも詳しくお話しする予定ですが、ともかく体験会場にしていくつもりです。

528Hzの音叉箱を数分に一度鳴らしながらセミナーを進める予定です。二時間から三時間の間、数分おきに528Hzを鳴らします。音叉箱での音ですので、パワーが違いますから、腹に、体に、頭に入りこむことでしょう。

そして体感として、528Hzが参加者の意識と肉体をどのように変えていくかも、同時に味わうことを目標にしています。

昔、ソルフェジオの古代音階を聞いた教会では、神と直接人がつながり、愉悦を感じたと言われます。

しかし、それは神の代理人としての法王の存在を無視しても信仰が維持できることとなり、ソルフェジオ音階、すなわち528Hzは教会にとってはよくない構造となるわけです。

そのせいかどうかはわかりませんが、歴史の中からソルフェジオと528Hzは消えていきます。

ですが日曜のセミナーでは教会ドームの中で聞いた音に近い音叉箱の528Hzで数分に一度鳴らし続けますので、時の流れと共にどのような内的変化が起きるか、とても良い実験になると思います。

法悦の思いが浸透してくるなら、この音と周波数に命が宿っていることがわかると思います。

日曜日の午後2時からのセミナーですが、こちらはすでに定員に達しています。上記の内容で行いますので、そこで得た新たな情報などを後にブログでアップいたしますので、上述内容に関心があった方は、ぜひご覧になってください。そのために、日曜セミナーの内容のご案内をさせていただいた次第です。

話しは秀真伝に戻りますが、火難除けのマントラがあるのです。私は偶然ですが、春の乾燥しきった松林で火事を起こしたことがあり、イノチから柄「そうだ、秀真伝に確か火難除けがあった、、、」と、大火の中で思い出し、呪文を唱えました。

すると、松林の火事が終息していったのです。後から来た消防隊が、おかしい、、、それにしても不思議だ、、、としきりに言っていました。

確かに、春の乾ききった松葉ほど燃えるものはありません。その松林の火事が自然終息したのです。

後で調べると、小笠原家では四国の大火を屋根の上に上ってこの呪文を唱えて消し止めた、、、という話しがあったそうです。

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十字架上のイエス 2015年11月20日(FRI)

  普通11月も下旬になると、まだ寒さへの耐性がないためか、体感的には一年中で一番寒い時期とも感じられるのに、このところの温かさは異様な程です。

今年の冬は暖冬でほぼ間違いないと新聞に書かれていましたが、どうやらそんな予兆を感じます。それも極端な暖冬になるかもしれない、、、という内容でしたが、暖冬だけど大雪が心配とか。

西高東低の冬型の天気図が続かず、湿った空気が入りこんで大雪になるのかもしれません。

昔、3月21日の春分の日に東京に大雪が降ったことがあり、私は親類の結婚式で市ヶ谷に向かいましたが、交通機関のほとんどがストップ。

春の温かな日に結婚式を考えて選んだのでしょうに、気の毒なことになったのですが、来年も3月の大雪には注意が必要かも。

それでも二人の結婚生活はその後も幸福で、雪がお清めになったのかもしれません。

私には超能力的なるものはありませんが、結婚式に出席すると、その二人がその後どうなるのかは、実はわかることが多かったです。

それは私の直観ではなく、注意してさえいれば、必ず誰でもわかる予兆として、何かが表現されるものだからです。

例えば、マリーアントワネットの結婚の署名には、王妃が署名する際にインクをこぼしたあとがはっきりと残されています。

長旅を終えてフランスにやってきた翌日の結婚式は疲れもあったでしょうが、インクの固まりでサインが固まってしまった、、、何となく不吉です。

マリーアントワネットの結婚は政略結婚でしたし、実際に結婚生活に満足した面は少なかったと歴史学者は述べています。

結婚という門出はスタートを意味する占星術的に言えば、アングルですので、出発に際したサインが大体は何かで出てくるのです。

知人の結婚式の式場に入ったとき、新郎新婦の席がはるかに遠くに見えて、その間にモヤがかかって見えたことがありました。

直観的にこれはダメだな、、、と。やはりそうでした。

まあ、三組に一組は離婚するご時世ですので、直観も何もあったものではないのですが、サインは必ず出ています。

そこでなのですが、自身の重大なイベントなどで、いやな感じの出来事が起こる、、、こんなことが起こるとは、きっとうまくいかないのでは、、、の不安が。

こうしたケースにどう対処するかで、運命は分かれます。主に次の三つの態度が選択できると思います。

1 いやなことを無視する。気にしないそぶりを通す。

2 気になりながらも、いやな気分になりながらも、さらに冷静に、慎重にすすめる。

3 不平や不満を口に出す。人のせいにしてしまう。


この中でどれがもっとも運勢的によいかについては、私は答えがあると思います。もっとも良いのは、2だと思うのです。

1もよさそうに思えますが、現実の不安を隠す点、むしろ恐怖を本当は増大させています。大きな恐怖に直面できない、本当は勇気が無い人がとる態度でもあるのです。

3は、不安に際し、すぐに不平や不満が出る人は、実力がないのです。日頃の努力が足りていれば、こうした態度にはなりません。調子よく出世した人はこうなった場合に自滅します。

2の態度をとる人が多いと思いますが、それが正解なのです。2の良いところは、不安を認め、慎重に注意深くやるものの、運命をどこか天に任せている点が幸運を招くのでしょう。

人がやるべきことは人がやり、天に任せるべきところは天に任せる、、、、これで行く以外にないと思います。

マリーアントワネットはまだ13歳程だったのでしょうか、、、インクをこぼしても、どう対処していいかきっとわからなかったのでしょう。

みなさんが今後、何か重大なイベントなどの場面で、不吉なことに出会ったとしても、2の態度で通してください。必ず、良い芽が出てきてくれます。

失敗や不運に際して、人のせいにしたり、何かを責めたりすると、最悪の結果を招くので、私たちには注意がいるのです。

責めたり怒れば、その時点で運命が決定されてしまうからです。どんなに不利なことが起きても、決して人を責めず、やるべきことを不安なままでもやる、、その自然な態度から、幸運の芽が出始めるのです。

イエスが十字架にかけられた際にも、同様の話しがあるのです。

イエスがゴルゴダの丘で十字架にかけられた際に、両隣に罪人がやはり十字架にかけられました。

そのうちの一人は、イエスをののしり、人を助けても自分や俺たちを助けられないのかよ、、、というような嘲笑をイエスに浴びせました。

しかし、もう一人の罪人は、イエスをかばって次のように言ったのです。「お前は同じ刑を受けていながら神を恐れないのか、、俺たちは悪いことをしたのだから、こうなるのは当然だが、この方は何ひとつ悪いことをしてないのだ」と。

そして続けて「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」

するとイエスはおこたえになるのです。「今宵、あなたは私と共にパラダイスにいるであろう」

この話しの何がすごいかというと、とにかくイエスのあまりのやさしさです。本当のやさしさです。

イエスのこの一言で、苦難の十字架は罪人にとって、甘美な十字架にすら変わっていったのです。

一人の罪人は私を救えないのか、、、、と嘲笑の言葉をイエスに投げかけ、救われない運命を自ら招いている。

もう一人の罪人はイエスをかばい、ただ一言、もしよければ、思い出してください、、、といっただけなのに、パラダイスの一等の指定席を得たわけです。

しかし、かみしめてみたいのは、やはりイエスの言葉です。

十字架上の最大の苦しみの中で、二人が交わす言葉。

「主よ、頭の片隅でもよいので、私を思い出してください」

「あなたはきょう、私と共にパラダイスにいるであろう」

こういう素晴らしい会話を見るにつけ、困難のない人生や苦しみのない人生に、意味などないという気になってしまいます。

それは、本当の言葉、本当の会話の機会が与えられることがないからです。
 


死者への瞑想 2015年11月19日(THU)

  墓地へ行くのが趣味という人がいる。老人ではなく壮年であったり、若者である場合も。

墓地にいると心が落ち着くというのだ。

縄文にもアイヌにも世界の先史文化には、死者や死の世界との交流がある。

元一というすべてが一体という世界観からは、死者も生者も同じ出所になる。

私も死者への瞑想を行うことがある。死者への瞑想とは、すでに亡くなった人を一人一人思い出し、尋ねる瞑想。

面白いのは、生前はあまり仲よくなかった人とでも、まったくこだわりなく逢うことができることだ。逢うといってもこちらが勝手に逢っていると思っているだけで、死者がメッセージをくれるというような通信とは違う。

勝手な思いであっても死者への瞑想は素晴らしいものがある。

まず、亡き両親、、、祖父母、、そして知人と続いていく。いつしか死者の世界と現世が一体となっている感覚に襲われて行く。もっと言えば、違いがない一体の構造である感覚になる。

昔はどの家にも仏壇があったり、死者とつながる方法があったはずで、縄文時代などは、死と生の解離がほとんどなかったのかもしれない。

わかっていることは、全員が死ぬ、、、ということで、逆に言うと、全員が死なない、、、とも言える。

死ぬのは現世的な物理で、死なない世界は永遠となる。

しかし私たちが生きているとき、その価値は逆転していて、物理的なものを求めて本質をゆがめていても現世ではそのことに気づけないでいることが多い。

世界一金持ちになっても、世界一健康でも、頭が良くても、それは現世の出来事なのだ。その現世の出来事に必死になってしがみつくのが私たちの姿だが、死者の世界を見てみると、そうしたものは残らず、結局残るのは、死者の人柄だけになる。

生前、金を求め、権力を求めて必死だった人に、あの世で逢ってみると、残っているのは、人柄だけなのだ。死んでしまっているのだから当たり前だけど、本当に面白い感覚になる。

誰でも必ず肉体は死ぬのに、必死になって、肉体的なものの維持のために、肉体的なものの優越のためにがむしゃらになっていく私たち、、、

死者の瞑想では、死んでもっていけるものが何かを教えてくれる。そして、死ぬべきもの、、、なくなるものにしがみつくことで、必死になることで、私たちは自身をどんなにか傷つけているかに気付くことになる。

生前事業で大成功したが土地の買い付けで失敗し、再起をかけて命掛けで努力していた人がおり、私も逢ってきました。結局あの世で触れ合えたのは、お互いの人柄の交流だけでした。

死者の世界はですから、けっこう気楽な印象がありました。

本当に私たちは死んでなくなるもののために、必死になりすぎ、今ある、人柄や身近な人との関係をどんどん壊しているような気になってくる。

死んでも死なない私たち。ならば、残っていくものを大事にした生き方がやはり正しいという気持ちになってくる、、、、それが死者への瞑想です。

すべての出所はひとつ、、、それは空でしかありえず、空であるが故に死者の世界も包含できるわけです。

飯島先生がおっしゃる、形あるものには、何の力もないのです、、、は、本当なんです。

今週の週末予定は、土曜日の無料セミナーは瞳を輝かせる微細なタッチ法を午後二時から。

魅力的な目にしたい人はいらしてください。指先のみによる微細なタッチBB法にきっと驚かれます。指以外に何も使用しない、純粋なタッチ法です。

日曜日の無料セミナーは前述した死者への瞑想法を実践します。麻の布をまとってやりたいと思います。こちらも午後2時からです。
 


週末予定 2015年11月14日(SAT)

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悩みや色々な問題で心理的、経済的、肉体的に追い込まれる経験は誰にでもあると思います。

これまでを振り返ってみると、そうしたことが12回程度あった気がします。

その時はもう死ぬ気持ちになるくらい追い込まれる、、、人に聞くと、そんな経験したことなんかない、、、という人がほとんど。

12回もそんな体験をしている私は、一体、、、? 自分の運命のなせるわざか、それはわかりませんが、逆境が多かったことは確かです。

現在もいくつかのことが同時に襲ってきて大変なのですが、運を天に任せる以外にないという心境。

先週の日曜日は麻の布をまとっての瞑想会でしたが、あの時に予兆現象はあった気がします。

いらしてくださった方はご存知ですが、不思議なことが起きました。

棚の上に置いてあった小さなショウケースが揺れも風もないのに、上から落っこちたのです。

不安定で落ちたのならわかりますが、棚上段の中央におかれていたショウケースは、倒れたとしても、横になったままのはず。

前の陳列物に何の影響もあたえることなく、飛び越えるようにしてショウケースは落ちたのです。

瞑想中でしたから、みな目をつぶっていたのですが、ふっと私は棚に目をやった瞬間で唯一の目撃者。

まあ、起こりえないことが起きたのでした。物品移動以外に考えられない事態。

麻の布の瞑想を始めてすぐの出来事。ショウケースが落ちっこない場所から落ちたのを知り、面白いのは、ほぼ全員が自分のせいではないか、、、と思った点でした。

それぞれの瞑想テーマを解消するようにショウケースが落ちたと、全員がそう思ったわけです。

さて、今週もまた麻の一枚布の瞑想会を行いたいと思います。

先週が問題の始まりを告げる出来事だとしたら、今週の瞑想では新たな問題解決のイメージが出ないとも限りません。

ともかく、麻の一枚布に包まれた瞑想は気持ちがいいです。

麻の一枚布の瞑想会は土曜日の午後2時から。無料です。

土曜日から写真のおしゃれゲートル「足首美人」が池田山ハウスにて発売します。ご希望の方はお試し用でゲートルを巻き、しばらく団らんの後、使用前使用後をご自身でお確かめください。(写真は足首美人)

次に日曜日の無料セミナーですが、ご自身の名前を読み解くセミナーです。

誕生日と名前は必ず意味があります。よく姓名を変更する人がいますが、あまり良い結果になってない場合が多いように思います。

もちろん成功する例もありますが、大体はまた元の名前に戻っているようです。字画を気にして変更したりするのでしょうが、変更そのこと事態に迷いがあるとすぐに挫折します。

名前を変えてよくないことにぶつかったとき、それでもなを続ける覚悟がない名前になっているからです。

やはり生まれてもらった名前を超えることは難しいわけで、日曜無料セミナーでは、皆さまの名前に秘められた意味と内容についてアドバイスさせていただき、皆で歓談したいと思います。

日曜日の無料セミナー「私の名前セミナー」は午後二時からです。
 


153匹の魚  つづき 2015年11月11日(WED)

  昨日の聖書の話しのつづきです。ただ時間がなくて、時間がきたら中断しますが、またそのつづき、、、を書きますので、その場合はご了承ください。

何だか大したことしてないのに、非常に忙しくて困ったものです。時間管理ややり方にきっと問題があるんだと思います。

もう少し意識的に行動しなくちゃダメなんでしょうね。人生も意識的に生きた人と、ただ漠然と生きた人生とでは、大きな違いが出るもの。

何がいいとは言えませんが、生まれてきた以上、何等かの役割というか個性があるはずですので、それを表明し、自分らしく生きることを決断することは大事だと思います。

さて、153匹の魚に込められた暗喩は、これまでにも色々な人が色々な形で述べています。

そこに共通するものは、驚きのメッセージです。暗喩にしたことで、さらに真実性が増して来ます。嘘は大体あからさまであり、真実は隠された形を取ることが多いからです。

153の数の上での性格ですが、これは、1から17までをすべて足した数になります。

三角数の17番目の数です。数霊術やひふみでも、またスエイデンボルグも言ってますが、高度な霊界の言葉はほとんどが数字だ、、、ということですが、数によって色々なことが原初的で根源性を失うことなく表現できるのです。

そのため、高度の霊界に於いて話す言葉は数字になる、、、というのはうなづけます。

1から17までの数を足したものが153ですが、17という数に込められたものがあります。

それは、7プラス10という構造です。
また、1プラス7=8  という概念も含んでいます。

どれも、実は救いと関係する数なのです。

7という数には、イエスとつながる人たち、、、の意味があります。

救済のイメージは常に7から出てきます。神は何度人を許すのか、、、、7の7倍、もしくは、7の70倍許す、、、と聖書に示されています。

聖書の神は怖い神の印象と、許しの神の印象の両面があります。それは人為的操作であったか、もしくは神々の戦いの結果であったか、それはわかりませんが、許しの神と怖い神の両面の姿が見て取れるのです。

しかし、新約聖書というイエスの時代においては、神は常に救いの神としてあらわされます。

救いというのは、いづれ救われる、、、という内容ではなく、すでに救われている表明をイエスは語っているのです。

だから、その内容を福音といいます。すでにイエスが十字架に付けられて、人々の罪を背負ったモチーフにより、人は救われている、、、というのが本当のキリスト教の姿でなくてはおかしいのです。

しかし、それでは教会権威化には都合が悪い面があったと思いますので、神と人とは直接につながることはできない、、、、だから教会が介在する、、、という形で教会が勢力を持つ時代が続きました。

しかし、イエスはそうは言ってない。私の名の元に複数の人が集まる時、私はそこにいる、、、という。教会の概念がイエスが語るものと、キリスト教会が語るものとの間には、微妙な差異があるように感じます。

あくまで私の個人の意見ですが、私はイエスの言葉に忠実でありたいと思います。

とはいえ、聖書編纂時には、昨日も言いましたように、色々な力や勢力が加わり、信徒らの思いが直接つたわりにくい面もあったように思うのです。

ヨハネ伝の最終章に置いて出てくる153という数を暗喩として使わざるをえない状況があったのでしょう。

これは、教会権威とは別の、直接イエスにつながる人の数を暗示した数なのです。

すべての3で割り切れる数は、それがたとえ数億桁であろうと、数兆桁であろうと、その数をすべて三条して和していくと、恐ろしいことに、すべての3で割り切れる数は153に行き着き、以降、一切変化しません。

3で割り切れる数の終着点はたったひとつ、153なのです。

3で割り切れる数とは、あらゆる数の三分の一になります。これがイエスとつながる人の数を暗示しています。

復活したイエスはペテロにあそこらへんに網を投げてみろ、、、と指示し、その結果、魚が網にあふれ、その数が153匹。

要するに私の網に捉えられる人間は三分の一、、、ということを言っていることになります。

イエスは以前にも、漁師に対して、私にしたがって来なさい、あなたを人間をとる漁師にしてあげよう、、、と語ります。

まさに、ヨハネの最終章で語られた内容は、さらにそれを推し進めた暗喩であり、イエスが救う人数に関係しているのです。

聴く耳のある者は聞くがよい、、、というイエスの一貫した態度は、もともとが、自分の言葉を受け止められる素養が持つ者と、ないものとに、けっこう厳密に分けた印象があります。

では、イエスは縁のある者しかお救いにならないのでしょうか。そうではないのです。

それが153のもう一つの意味であり、10プラス7なのです。

7というイエスの言葉、、、、すなわち福音を受け入れる人数が7  さらに何もわからない人の群れが10

結局はイエスはすべての人を救う、、、、というか、すでに救っている、、、、という内容になっている。

すでに救われているのですが、そのことを知らず、自分を自分で守るしかないという意識の前で、救われていることに気づかない人がいることも事実なのです。

不安と恐怖をベースにするということは、福音を知らないということになります。そして、そうした勢力が時代を支配してきた以上、イエスの存在や聖書の二重性の中で、私たちはこの二千年を生きてこざるを得なかったのです。

事実はすでに救われている、、、しかし時代支配の原理は救われていない形で進みます。

だから原発が必要となるし、金がすべてのような宗教的意識が生じるし、悪が存在するのです。

しかし、悪も福音の時代の前で、悪そのものの姿を見せることはできません。なので、人々を洗脳し、人々の自主性を頼りに私たちを地獄的なものへ追い込むしか方法はありません。

要するに、時代はすでに福音なのですが、閉じ込める意識そのものによって、私たちは自縛により、不自由になっているというのが、正しい時代認識なのです。

聞く耳のある者は聞くがよい、、、というイエスの言葉の中に、人は見ているものの違いがあることを実感せざるを得ません。

私の言葉が心に入る者が、三分の一、、、とイエスは語っているのですが、それでも私はすべての民を救う、、、という最終のイエスの言葉を暗喩にして表した数が153だったのです。

153の数の中には、イエスの本当に深い愛が込められたいることになります。

私も救われている、、、あなたも救われている、、なのにそう思えず、悪の仕組みの中で呻吟してしまう、、、、

聞く耳をもって、新しいイノチに入る生き方が今求められています。

聞く耳、、、太古から鳴り響く命の音、、、それと一体となるために、私はMIチューナーを開発したわけであり、また、母音トーニングを重要なものとして、行っているのです。

そして聖書の中にもそのことは語らているのです。144000人の人のトーニングがこだますとき、人類も地球も変化し、本当の福音の時代が訪れると。

それが水瓶座時代の到来なのですが、これも先取りされて、違った印象操作がなされてきた言葉です。

本物を乗っ取る、、、そして本物から命を捨てさせ、形骸化された者で人を集めて迷妄を深めさせる、、、このうお座時代特有のやり方に、終止符が打たれようとしています。
 


聖書の話し 153匹の魚 2015年11月10日(TUE)

  私たちが知っている歴史や社会の理解は、常にオブラートが掛けられ、悪く言えば洗脳を通してしか、現実に触れられない構造をしていると思います。

自分は洗脳などされてっこないと、誰もが思っていますが、果たして本当にそうでしょうか。

新聞でテレビで、重要なことを二面記事の最後の方に小さく掲載しておけば、そんなに多くの人は気が付きません。

それがどんなに重要な内容だとしても、一面に堂々の掲載されていなければ、人はそれが大したニュースではないと勝手に思ってしまいがちです。

権力にとって多くの人に知らせるのはまずいと思われる情報は、このように、どんなに大切なことでも扱われないとも限りません。

ニュースの順番にしても、最後の方にあっさり伝えれば、それが重要な意味を持つ情報だとは誰も思わなくて当然。情報の印象操作など、簡単にできるはずです。

実際に昭和バブルが崩壊した際には、それに先立つこと数日前に、当時の日銀が貸付けの総量規制に入るという記事を、小さく掲載していたということです。

日銀がお金の貸し出しを渋れば、土地転がしは突然ストップします。今なら誰にでもわかる内容であっても、扱いが小さければ、新聞一面にある、日経600円を超える上昇、、、の記事の印象には勝てません。

しかし、わかる人は「これは大変だ」となり、皆が気づく前にいくらでもいいから売り切って逃げたことでしょう。

こうしたやり方は、今でも同じです。一部の人たちのための利益を保証し、他の大勢の人から奪い取るやり方は、洗脳の成果ですが、時代運営のずるいやり方として、権力者からしてみたら、どうしても洗脳は必要ということになります。

なので、民衆は政府にだまされる構図をどうしてももっていますので、だまされないようにしなければ人生を奪われてしまう、、と言っても大げさではないでしょう。

権力者が言うことは、権力者にとって利益になることです。権力者と民衆の利益が一致するのが良い時代だと思いますが、今は残念なことに利益が反しています。

既得権益など国に巣食っている人が多くなったため、民衆と国の利益が一致しないようになっています。

国には力がありますから、民意をマスコミで抑え、洗脳し、国民から巧みに奪い取るようになっていきます。

選挙をださく虚しい印象でうずめ、若い人が選挙に行かないように、一般大衆が選挙に行かないようにしておけば、少数の力で、国を乗っ取るようなことが可能になります。

実際、少数の賛同者しかいなくても、選挙に行く人が少なければ、それは反対票にならないのですから、少数独裁政治が可能になるでしょう。

日本が独裁とはいいませんが、少数の考えで押し切られていることは事実だと思います。

知らぬうちに、選挙なんて、、、バカらしい、、、と思う気持ちが、洗脳の結果であるとすれば、笑っていられません。

選挙に限らず、あらゆることに洗脳が働いています。世界一の長寿国日本、、、ということですが、本当にそうなのでしょうか。統計分析の方法におかしな点などないでしょうか。

長寿国ということになれば、医療の正当性は担保されます。インチキしていると言っているのではありませんが、ある思惑を通そうと思ったら、それを可能にさせるための洗脳は必ずある、、、のではないでしょうか。

何が言いたいかというと、自分の見方を持たないと危険に対処できない時代に入っているということが言いたいのです。

みんなが言うからワクチンを打つ、、、あとでひどい目にあっても泣き寝入りですので、打つ以上は自分なりに考えた方が得策ではないか、、、と。そうでなければ自分を守れない時代ではないか、、と思います。

原発が必要、、、そんな洗脳はさすがにもう効きませんが、権力者はまだやろうとしています。まるで狂気の沙汰です。すでにフリーエネルギーはあり、そこまで行かなくても、代替のエネルギーは十分です。

高々、電気を得るために、熱湯を沸かすのに危険極まりない原発など使うことは、本来ありえない話しなのです。

洗脳がない限り、できないことだったと思います。

天皇陛下が御進講の際に、内容が原子力に関係したことだったのですが、その際に、陛下から改めて、「原発は本当に安全なのか」のお尋ねがあり、それに御進講の担当者は「安全です」と伝えた、、、という話しをどこかで聞いたことがあります。

陛下もだまされていたことになるのでしょうか。御進講の担当学者が間違っていたわけですが、洗脳の正体は学者も動かし、あらゆる機構に及びます。しかし、それは権力者の恐れなのです。

洗脳が溶けていく時代に今、入っています。

人は本当におかしなことまでして働く必要などあるのでしょうか。

お金は大事なものですが、果たして、それを担保するものは何で、今でも、本当に価値があるのでしょうか。

私が確か高校生の時だったと思いますが、家でとっている新聞、確か朝刊だったと思いますが、一面に「水晶の中に太陽のエネルギーを閉じ込めることに成功」という記事が大きく載っていて、これでフリーエネルギーが得られると、ワクワクした記憶があります。

しかし、次の日になっても、その次の日になっても、続報がまったくなかったのです。

なぜなんだろう、、、と思ったのですが、今考えれば、フリーエネルギーが出回れば、石油も売れなくなるし、敷いては権力の構造が壊れるので、よくない記事にされたのですね。

こうした記事を取り上げる人は出世できなくなったり、冷や飯を食わされたりし、それを見た同僚たちは、都合のよい記事を書けば出世できると悟り、段々とおかしな時代を築いたのでしょう。

ともかく洗脳です。おかしなことをやるためには、おかしなことを真実に思わせるためには、洗脳はどうしても必要になります。

これがうお座時代ということですが、聖書の中にも、今後の嘘の時代を築く方向と、真実を隠して伝える方向の二方向が現れます。

都合の悪い個所は、おそらく聖書から省かれ、問題のないものだけが残されていった、、、イエスの弟子たちは、そうした事実を残す戦いの前線にいたことになります。聖書には、そのため、暗喩でしか言えない内容が存在します。

聖書編纂にはかなりの年月がかかっていますので、真実を伝えようとする人は、洗脳を目指す人と対決する形になり、本当のことを比喩や暗喩によって伝える以外になかったのだと思います。

そうした葛藤が見られる個所について、本日は取り上げたいと思います。

それは、ヨハネによる福音書の最後の章、21章に復活したイエスが登場する場面があるのです。

ヨハネ伝は福音書の中でも最後に編纂されたものですから、色々な邪魔や宗教支配にとって不都合がある個所は掲載が許されない、、、そんな状況があったかもしれません。

ことに、この最終章において、出てきた暗喩には高度な意味あいがあるように思います。ただしあくまで、私の勝手な感じ方であることは、先に申し述べておきます。

さて、何が書かれているかですが、復活したイエスがペテロの元に来て、ペテロを特別な弟子とし、子羊を育てる使命をお与えになった、、、という内容です。

ヨハネ伝は不思議でせっかちな終わり方をしている福音書です。まだまだ色々書きたいことがあるが、そうなると数限りないので、これだけにします、、、、というような終わり方。

不思議です。おそらく、自由に書けない状態だったと思います。また、聖書記事が正しく伝わるのか、イエスの言ったことを正しく、イノチある形で伝えられるかの、ギリギリの争いがあったようにも思われます。

そのため、不可思議な終わり方になっているのではないかと思うのです。

こうした最終章のおいて、切迫した思いを持つ最後の章に置いて語られたことには深い意味がきっとあります。

ヨハネ伝最後の記事は、イエスの指示によって湖で漁をした際に、153匹の魚が取れた、、、という話しです。

聖書の中に出てくる数字には色々ありますが、どれも象徴数であり、聞いているだけで、ああ、数を象徴的に使っているな、、、ということがわかります。

たまにそうでない個所もありますが、大体は、6とか7とか12とか、わかりやすい象徴数ですが、この153という数は変わっています。

イエスが漁を命じて、それが何匹であろうがどうでもよいようなものですが、聖書には忠実に153匹と書かれています。そこには、必ず、意味があるはずです。

153という数字には、重大な意味があり、イエスはこのことをもって、ヨハネ伝を終える、、、その最後の暗喩として153の魚の話しを放ったのです。

続きはまた明日にでも書かせていただきます。長くなりますので、本日はこれにて、一応、終えることにさせていただきます。

明日、またよろしくおねがいします。
 


聖書のお話し 2015年11月03日(TUE)

  最近は音楽づいていて、きょうは港ミライホールでやはり先日と同じチェコフィル及び庄司紗矢香さんの演奏会へ。

池田山スタイルで行きました。庄司さんファンの一人として、きょうはサイン会があったので本当はサインしてもらいたかったのですが、時間的に無理だったため、あきらめました。

音楽ファンの勝手な思い入れから、何か妙なことを言ったりしたら申し訳ないと思い、遠慮した面も。

何が言いたかったというと、私は庄司さんがバッハ演奏にこだわっているのを、あくまで勝手にですが感じていて、彼女のバッハを聞くと、自由に演奏できない葛藤を感じてしまうのです。

世紀の大天才バイオリニストである庄司さんに意見などできなくて当然ですが、メンデルスゾーンやチャイコフスキーのときとは違う緊張を、バッハの無伴奏演奏などで感じてしまうのです。

すごく忠実に、深く演奏されているのですが、これでいいだろうか、、、という思いが出す音にベースになって流れているのを私は勝手に感じてしまうのです。

バッハ無伴奏やパルティ―タ、シャコンヌなどを、いずれ庄司さんが世界最高の演奏をすることは、勝手にですが、私は実は信じていて、その葛藤のさなかにあることがわかるのです。まるで精神病のような言い分ですが、ファン心理としてお許しを。

ファンは本当に勝手なことを言うものですが、要するに無責任な思い入れなのですが、庄司さんの生まれた時の星の配置もわかっているので、他人事に思えない、勝手な思い入れがあるわけです。

ご存知、バッハの無伴奏のバイオリンは、西洋のものでもあり東洋のものでもあるという、凄い曲なんです。洋の東西を超越しています。

それは人の意思や思いを超越した無の旋律とも言える領域であって、どうやって演奏しよう、、、との思いが演奏家の中にあるうちは本当には演奏できない、そういう曲でもあります。

いずれ庄司さんが無になりきることは確実で、その時には、とんでもないバッハが聴けるはずです。

来年の6月にバッハ無伴奏のコンサートがあるようですので、本当に楽しみにしています。果たして、どのような演奏になっているでしょうか。

いいですね、、、こうやってファンは勝手なことを言えるのですから。

さて、聖書の話しの続きです。

今回の聖書の話しは、イエスの暴力については後回しにして、有名なブドウ園の話しにいたしましょう。

聖書の中のどの部分のどの個所だったかなどは、確認してませんので、あえて省略しますが、確かブドウ園だったと思うのですが、とにかく農園で働く人の話しです。

農園には朝から働いた人がおり、次に昼ごろから働いた人がおり、さらに夕方近くに来て働いた人がいた、、、、という内容。

当然、朝から来た人が一番長く働いたことになります。次が昼から来た人です。そして夕方に来た人は、ほとんど働いてない、、、そんな状況でしょうか。

そこに農園主が表れて、皆に日当を与えます。朝来た者に、昼から来た者に、そして夕方から来た者に、農園主は同じ金額の報酬を与えたのです。

すると、朝から来ていた人が文句を言いだします。私は朝早くから働いているのに、夕方から来た人と同じなんて、おかしくないか、、、、と農園主にクレームをつけました。

そして、夕方から来た人は、自分はそんなに働いてもいないのに、朝から働いていた人と同じ金額をもらえるなんて、、、と、農園主に深く感謝したのです。

考えるまでもなく、私たちは、朝から来た人の気持ちがよくわかると思います。

しかし、農園主は次のように言ったのです。
「私は朝早くから働いたものにも、遅く来たものにも、同じように支払ってあげたいのだ」と。

こうしたたとえ話しをした後、イエスはこのように語ったのです。「このように、先の者が後になり、後の者が先になるであろう」

天国とはそういうものだ、、、というたとえとしてイエスは話されました。

私はこの話しを中学校の時に聞いて、どうしても腑に落ちませんでした。

優しい農園主が朝から、昼から、夕から働いた者に、同じ金額を上げる、、、そこまでは、農園主のやさしさとして理解できたのですが、そのあとの、イエスの言葉がわからなかったのです。

イエスは、朝来たものより、夕に来たものの方が先になるといいます。

同じなら、私もわかりますが、なぜ、反対にならなくてはいけないのか、、、あまりに不平等ではないかと思ったのです。

すると教会学校の先生が、こう教えてくれました。
公平な扱いをした結果、一生懸命やっていた人に不満が出てきた、、、、一方、ちょっとしか仕事してない人には、感謝が出てきた、、、だから、逆転するのが天国だ、、、というイエスのお話しなんだよ、、と。

頭があまり良くなかった私は、すぐには飲み込めなかったのですが、やっと理解することができました。

そうか、、、これだけやったのに、、、という不満と、こんなにもしてくれたという感謝、、、、だから逆転したんだな、、、、ということがやっと飲み込めたわけでした。

私たちにも、こうしたことはけっこうあると思います。愛情深い人かどうかの判定法として、「こんなにしてあげたのに、、、」という気持ちが全面に出る人と、「こんなことしかできなくてごめんね」という気持ちが全面に出る人では、大きな違いがあると思うのです。

前者は悪の性質を代弁し、後者は神の性質を代弁していることになります。

無理して1万円をあげて、あんなにあげたのに、、、と思うより、1000円しか渡せなくてごめんね、、、の気持ちが神の思いに近い、、、、

私たちの生活のいたるところで、私たちは神にも悪にもなっていることになるでしょう。

あなたは、あんなにしてあげたのに派ですか、、、それとも、こんなことしかしてあげられなくて派ですか。

その違いがイエス様は、天国と地獄の違いでもあるということを、農園主の話しから聞き取れるようにも思えます。

また機会があることに聖書の話しを、あくまで私の個人的な話しとして、話させていただきたいと思います。
 



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