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■ 判断基準は何? |
2016年12月11日(SUN) |
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人は誰でも強固な判断基準を持ち、それに従って日々あらゆる事柄を判断しています。
その基準は本人にとっては自然すぎるため、自身が何をもって判断の基準にしているかを、むしろ忘れさせます。
何年やっても、何年生きても、何も変わらないことが多いのは、自身の判断基準がいつも同じためです。
損得を判断の基準に置いている人は、いつでもどこでも損得で物事を考え判断します。
物心がついてこの方、一度として、自分から損する選択をするよううなことはありません。
それでいて、いつも自分は損ばかりしていると思っているものです。その人にとって、損得が判断の基準にあることを認めず、無意識のため、いつでもその基準に突き動かされてしまうのです。
そうなれば、自分の子供に対してすら、決して損する道を選ぶことはありません。一度として、損する選択をしたことはない、そういう生き方になります。
損得の判断基準はあくまでそういうケースを責めるために出したのではなく、わかりやすいから例として上げたわけです。
私たちは何等かの判断基準を持ち、常にそれに従って物事を判断し決断しています。
それはほとんど無意識なため、周囲の人にはわかりますが、本人はそのことになかなか気づきません。
本人の無意識は周囲の人には見えますが、本人は無意識であるためにわからないのです。意識できないのですから。
そのため周囲が、あの人は損得勘定で動いていると分かっても、本人は決してそうだとは思っていないので、本人と周囲との関係には、どうしても感じ方での乖離が生じます。
その乖離は居心地の悪さにつながったり、人間関係の選択に直接につながるので、人は判断基準の無意識に沿って、自分の運命を形成していると言ってもよいでしょう。
取り巻きだけを集める人間関係や、取り巻きだけを集める政権もそうですが、それは無意識に従っているわけで、いつか現実と無意識のギャップの解消にあい、運命と呼べるような出来事を起こして終えていきます。
このように誰もがもっている何らかの判断基準。それが無意識である場合は、必ず、ギャップ埋め合わせのために運命的な出来事が生じます。
ケチなら自分はケチであり、その判断に従っている、、、となれば、判断基準と現実の構築の間にギャップは生じません。ケチは意識されているからです。
判断の基準には、このように損得もあれば、楽か大変かという判断もあるでしょう。怖いか怖くないか、、不安か安心か、、という判断基準もありますし、出世できるかどうか、、、権力を持つためになるかならないか、、そうした判断基準もありますし、美的かどうか、、、どういう学校を出ているか、、というものもあるでしょう。
判断基準はそれこそ無数です。
数多くある判断基準の中で、すぐれたものがひとつだけあります。この判断基準に従えば、あらゆる問題を解決できますし、問題を生じることも少なくなるというもの。
それは、自然であるか、不自然であるかの判断基準です。これを持っている人は、幸福で平穏に生きるためのパスポートを持っているのと同じです。
自然とはナチュラル、、、大自然も同じです。これに対して、不自然は、一言でいえば、ケミカルです。
大自然を壊すのはケミカルです。人の生き方も同様です。ケミカルには必ず副作用が伴います。その副作用に人はやられるのです。
と言って、ケミカルが悪いわけではないのです。あくまで自然であるかどうかの判断の基準があるかどうかです。
私は心の底から森田正馬博士を尊敬していますが、森田博士の価値観や判断の基準には、常に自然であることがうかがえます。
貧乏の時は金があればと羨み、金持ちになれば清貧を懐かしむ、、、人情の自然に勝るものはない、、、という立場に常に立っていました。
大事な者を亡くした際には、一目をはばからずに泣き、たしなめる人には、だって悲しいのだと涙ぐむ。
それでいて次の日は鼻歌を歌いながら大工仕事をしている、、、、感情の揺れ動きを自然に受け止めるため、周囲からは気がおかしくなってようにすら見える。
感情の自然を受け入れるが、決してこだわらない姿が周囲からは理解できなかったわけですが、ともかくそれを実践した人でした。
自分が死ぬことを覚悟したときは、病院に弟子を集めた。○○君、脈は、、血圧はどうだ、、と尋ね、答えを聞くと、そうかまだ5時間は平気だ、、、ああ死にたくない、、、と語る。
○○君、脈は、血圧は、、と。そうか、もうダメだ、、、ああ死にとうない、、、と。そして臨終を迎える。
結局森田は、最後に弟子を集め、病院で最後の授業を行ったわけです。死ぬという事実は受け入れる以外にない。しかし、死にたくないという感情も受け入れる以外にない。
あと、数時間は大丈夫だ、、、の言葉は、現実をありのままに受け入れる姿勢。そして、ああ、死にたくないは、感情のありのままを受け入れる姿勢。
これを自分を見本にして最後の授業にして弟子たちに魅せるというすごいものでしたが、死ぬという現実を受けいることも、死にたくないという感情を受け入れることも、その模様を弟子に見せたいとする博士としての姿勢も、、、、どれも自然なのです。
私たちの時代は悲しいことにとても不自然です。不自然な社会形態、不自然な医学、学問、科学、不自然な教育、その中には自然な事柄ももちろんあるので何とか持っているのですが、まともで自然な感性を持つ人は、苦しんでいると思います。
不自然とケミカルは同じですが、ケミカルの副作用で社会も地球も疲弊している現代は、これから、立ち直る方向に行くには、自然であることを選択する以外に道はありません。
まずは、個々の生き方、、、個々の判断基準の中に自然であるかの基準を置くことで、私たちも周囲も段々と良くなっていくと思います。
ひとつの判断基準に縛られることで、私たちは窮屈になっていると思います。夢を持つ生き方、、、とか、スローガンは私たちを、本当は巧妙に痛めつけるものなのです。
自然な判断基準に従えば、貧乏な時は金が欲しい、、ある程度金が自由になれば、人にも使いたい、、、そうすれば、もう少し自分が目指す道が見えてきて、時間をかければ、何かできるかもしれないと思いだす。
目標に向かって努力をすれば、時にはいやなことがあり、時には面倒になることもある、、、そんなとき、スローガン発想に走れば、弱者や敗者しか生まないが、自然であれば、時にはダメな時もあるだろう、、、とかなり自由。
そんな判断の基準があっても良いのです。森田は夜中に雨が降れば、あっそうだと思って目が覚め、外の洗濯ものに気づくという。それが自然な人間だという。
何時間寝なくては、、何を食べなくては、、いくらもらわなければ、、、それも大事な時があるかもしれないが、度を越せば、人をしばり、判断基準が自分を縛り、最後には気が狂ってしまう。
ケミカルが考えや生活に度を越して入っているとき、人は不幸なのです。
しかし、不幸の最中には自分が不幸だとは思わない。自分の正当性を主張しなければならなくなる。正当でないからなのです。
自然、、、ナチュラル、、、これを判断の基準において、難しい時代を乗り越えて行こうではありませんか。
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