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なんだか忙しくてブログの更新もなかなかできませんでした。
さて、以前に聖書について話させてください、、、といったままそれきりになっていましたので、本日からイエスの話しを取り上げたいと思います。
キリスト教も宗教も関係なく、あくまで聖書の言葉やイエスについて、一人の人間が自由に語る、、、という視点でのお話しです。
間違いもあると思いますが、一人の人の解釈や感想であるということで、お聞きくださればうれしいです。
ご存知のように聖書とイエスキリストが人々に与えた影響はとても大きいものがあります。
西洋文明を考えるときに、聖書、占星術、カバラ、バラは、必要なものではないでしょうか。バラについては私の勝手な思い込みですが、バラは西洋人にしかわからない深い意味合いがあるようになぜか感じています。
私が聖書に出会ったのは、中学校がミッションスクールだったからですが、その前に不思議な夢を見ていました。
ある晩のこと、二匹の魚が向かい合わせにいて、それがお互いに回転を始める夢を見て、そのリアルさがとても印象深かったのです。
もちろん、その意味がわかるはずもありません。その後、中学に入り、教会に通うこととなって知ったのは、原始キリスト教会のマークそのものだったのです。
原始キリスト教会のマークは二匹の魚が回転を始めようとする前の状態を描いたものです。それは占星術のうお座のシンボルでもあります。
夢の中で、そのシンボルは幾人もの夢の中に出てきている、、、という印象があり、おそらく何人もの人が同じシンボルを夢の中で見た、、、ということがわかりました。
また、回転するのが本当のシンボルであることは、夢の中で知ったわけで、実際のシンボルは回転している印象はなく、固定された二匹の魚で表現されています。
しかし、本当は回転しているのではないかと、勝手に思っています。回転し出すのを夢で見たからです。
また同じシンボルを幾人もの人が見た、、、という直感は、実際に原始キリスト教のシンボルは共通した魚の画像であり、どれも非常に似ているのです。
占星術シンボルも同様ですが、昔の図柄自体にもしかしたら意味があるかもしれません。うお座に限らず、古代からある占星術シンボルに共通する図柄を一度研究してみたいと思っています。
そんな勝手な連想にすぎませんが、実際に私の中ではうお座シンボル、、、すなわち原始キリスト教会シンボルに導かれるように、キリスト教および占星術と、縁ができることになっていきました。
二匹の魚のシンボルは教会というよりも、イエスキリストのシンボルです。それは同時に春分点がうお座に入る時期と同調し、プラトン年のうお座時代の到来を告げるシンボルであったのです。
二匹の魚に示された内容には、イエスの愛の教え、および、人類がうお座の二千年の時代を迎えたことを意味していたといえるでしょう。
うお座の二匹の魚は、みずがめ座の水がめから流れ落ちる水の中を泳ぎます。
イエスがいう、そのときは近づいた、、、という言葉は、次のみずがめ座時代を暗示する内容であり、聖書は壮大なプラトン年の地球時代規模に即した背景を踏まえて語られていることは間違いないと思います。
聖書が単なる経典や教えの書と異なるのは、そうした大きな背景を持って成立しているからです。
そしてイエスは、そのことを忠実に体現されているように私には思えるのです。
安息日という日があります。ユダヤ教では今なを正しく守られていると思うのですが、安息日には人は働いてはいけないのです。
それは神がこの世をおつくりになって7日目は休まれたことから来ているのだと思いますが、その風習が今なをユダヤ教や他の宗教にも重要なものとして残っています。
イエスの話しは、けっこう最初はそこらへんから始まります。イエスについて語られているのが、新約聖書ですが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に主にイエスの言葉が伝えられています。
編纂された年代が異なることもあって、ここの福音書にはあるが、こちらにはない、、、こちらにはあるがこの福音書にはない、、、ということがあります。
イエスの語る言葉に共通したものを探すとしたら、古い経典を確実に守る時代から、心と愛を主軸に生きなさい、、、という内容にほかなりません。
そこでイエスは安息日を持ち出し、それを説きます。安息日に羊が穴に落ちた、、、、その状況に際し、本来なら人は働いてはいけないので、そのまま何もしないでおくことが正しいという考えでした。
実際はそんな場面では、もちろん、昔から人は羊を助けていたのをわかっていて、あえてイエスはそういったのです。
イエスは安息日だからと言って、穴に落ちた羊を助けないわけにはいかない、、、安息日だからと言って、人を助けるのと、殺すのとどちらが良いのか、、、という謎かけを行うのです。
イエスが困っている人を安息日に助けた、、、それをルール違反ではないかと、責める人がいたときに、その言葉が出ました。
形だけのルールで人の心が縛られていくことに、明らかな反逆を説いた人がイエスでした。
官僚的なものと人間愛との対立が、聖書の主軸にあることは確かなのです。そして一貫してイエスはそうしたものと戦い、十字架にかけられていったわけです。
イエスが何と戦ったのか、、、この視点が本当は重要なのです。
形を守ることで命と愛を失う時代にイエスは戦ったのです。
当時のイエスがいたところの一体はローマが支配していました。そこで、意地悪な人がイエスを困らせ、敷いては反逆者としてイエスを捕まえることを考えて質問します。
慇懃無礼にイエスに近づき、うやうやしい態度を表面的には見せながら、こう尋ねました。 「ところで、ローマに税金を納めてもいいでしょうか」
イエスは神の国を説いていたわけですから、ローマという実質的なこの世の支配権に対して、反逆者としての位置づけを行うための悪知恵だったわけです。
それを知ったイエスが、「金貨を見せなさい、、ここに書かれているのは、だれの肖像か」とお尋ねになると、イエスを陥れようとしていた人は「カエサルです」と答えます。
カエサルとはシーザーの読み方を古い時代の聖書の日本語訳ではそうしたのでしょう。しかしシーザーというよりもカエサルといったほうがなんだかしっくりくるのも不思議です。
それはともかく、イエスは続けて言います。 「ならばカエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」
税金を払わなくてもいいといえば、イエスは時の権力の反逆者となりますが、この言い方は知恵深い言い方です。
これは、知恵によってイエスが窮地から抜けた話しとしてとらえるのではなく、私は、イエスは誰とも争わない、、、対立しない、、、という生き方を示した内容であると思います。
右のほほを打つものがあれば左のほほも、、、とは有名ですが、そんなイエスが暴力を振るったことも実はあったのです。
それについては、また次回にお話しいたします。 |
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