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墓地へ行くのが趣味という人がいる。老人ではなく壮年であったり、若者である場合も。
墓地にいると心が落ち着くというのだ。
縄文にもアイヌにも世界の先史文化には、死者や死の世界との交流がある。
元一というすべてが一体という世界観からは、死者も生者も同じ出所になる。
私も死者への瞑想を行うことがある。死者への瞑想とは、すでに亡くなった人を一人一人思い出し、尋ねる瞑想。
面白いのは、生前はあまり仲よくなかった人とでも、まったくこだわりなく逢うことができることだ。逢うといってもこちらが勝手に逢っていると思っているだけで、死者がメッセージをくれるというような通信とは違う。
勝手な思いであっても死者への瞑想は素晴らしいものがある。
まず、亡き両親、、、祖父母、、そして知人と続いていく。いつしか死者の世界と現世が一体となっている感覚に襲われて行く。もっと言えば、違いがない一体の構造である感覚になる。
昔はどの家にも仏壇があったり、死者とつながる方法があったはずで、縄文時代などは、死と生の解離がほとんどなかったのかもしれない。
わかっていることは、全員が死ぬ、、、ということで、逆に言うと、全員が死なない、、、とも言える。
死ぬのは現世的な物理で、死なない世界は永遠となる。
しかし私たちが生きているとき、その価値は逆転していて、物理的なものを求めて本質をゆがめていても現世ではそのことに気づけないでいることが多い。
世界一金持ちになっても、世界一健康でも、頭が良くても、それは現世の出来事なのだ。その現世の出来事に必死になってしがみつくのが私たちの姿だが、死者の世界を見てみると、そうしたものは残らず、結局残るのは、死者の人柄だけになる。
生前、金を求め、権力を求めて必死だった人に、あの世で逢ってみると、残っているのは、人柄だけなのだ。死んでしまっているのだから当たり前だけど、本当に面白い感覚になる。
誰でも必ず肉体は死ぬのに、必死になって、肉体的なものの維持のために、肉体的なものの優越のためにがむしゃらになっていく私たち、、、
死者の瞑想では、死んでもっていけるものが何かを教えてくれる。そして、死ぬべきもの、、、なくなるものにしがみつくことで、必死になることで、私たちは自身をどんなにか傷つけているかに気付くことになる。
生前事業で大成功したが土地の買い付けで失敗し、再起をかけて命掛けで努力していた人がおり、私も逢ってきました。結局あの世で触れ合えたのは、お互いの人柄の交流だけでした。
死者の世界はですから、けっこう気楽な印象がありました。
本当に私たちは死んでなくなるもののために、必死になりすぎ、今ある、人柄や身近な人との関係をどんどん壊しているような気になってくる。
死んでも死なない私たち。ならば、残っていくものを大事にした生き方がやはり正しいという気持ちになってくる、、、、それが死者への瞑想です。
すべての出所はひとつ、、、それは空でしかありえず、空であるが故に死者の世界も包含できるわけです。
飯島先生がおっしゃる、形あるものには、何の力もないのです、、、は、本当なんです。
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