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明日から一週間、29日の月曜日までSHOPマドモアゼル・愛はお休みします。オープンは30日の火曜日からです。カートでの発売は継続で変わりありません。
以前にもお伝えしましたように、この一週間は講演と勉強の期間となります。
光によるギャップ作りの実験が勉強の主な課題で、すでに色々な実験を行っていますが、個人的には光ギャップがエネルギーを呼び込むことへの疑念はなく、確信に至っています。
ただ、それは科学的には認められるものと違いますので、残念ですが、効果や驚きについて大声で言うことはできません。あくまで私はそう信じる、、、という形にならざるを得ないわけです。
あらゆる問題は副作用にあるのです。体に良いものや、エネルギーを取り出すのに良い物、現象などを人類は追求してきているわけですが、どんなに良い物にも必ず、副作用が伴います。
本当は、物には何の力もないのですが、物がエネルギーを取り込むある条件を知らぬ間に作り、結果的にエネルギーを取り込むのを見て、私たちはあたかもその物にエネルギーがあると勘違いします。
物は条件作りはできても、物自体には何の力もありませんので、そこからエネルギーを取り出すことは不可能です。
また悪いことに物を食べたり、薬を飲んだり、運動したりすると、必ず、副作用が伴います。
副作用よりも取り込めたエネルギーが多ければ問題はありませんが、物信仰や薬信仰、運動信仰に陥ることで、際限なく続けるという一種の信仰状態となり、結果的に副作用に負けていくのです。
ある薬が効く、、、ある食べ物が体に良かった、、、ある運動で体が楽になった、、、そうすると、人はパワー信仰が好きですから、それを際限なく取り込もうとして、エネルギーの取り込み以上の副作用で負けていきます。
体に必要なエネルギーは一定量しか、物や薬の条件付けでは得ることはできませし、それもやりすぎることで、副作用に負けてしまうのです。
はじめは効くと思った薬も、体に良いと思った食べ物も、良いと信じた運動も、最初はその通りでしたが、結局は、副作用に負けますし、運動の結果は、体を壊して中止していくことになるわけです。
物にも運動にも本当は何の力もない、、ということがわからない限り、人は副作用から抜け出ることはできません。
物が作りだすエネルギーを取り出す条件づくりには限界がありますが、それでもギャップからエネルギーを取り出す原理がわかっていれば、副作用以上のエネルギーを取り込むことが可能になります。
体に良い薬よりも、体に良い食べ物が作るエネルギー取り込みの条件づくりの方が多少は良いことでしょう。
さらに、体に良い食べ物よりも、体によい水がもたらす条件づくりの方がもっと副作用が少なくて済みます。
さらに言えば、体によい水よりも、体によい光の方がずっと副作用は少なくなります。胃腸で消化する必要がありませんので、副作用は少なくなります。
さらに言えば、体に良い周波数の音の方が、さらに副作用が少ないはずです。
副作用が少なくエネルギーを取り込むことに成功すれば、それは若さの持続と長寿をもたらす鍵ともなります。
そのうち、光のギャップはとくに凄いものがあると私は個人的に勝手に思っているわけです。
本当は光以上のものが音のギャップだと思うのですが、これについては、ボディを越えたところに働くエネルギーですから、この世的な意味での効果ははっきり実証することはできないでしょう。
音が実は最高なのです。しかし、はっきり実証できるものは、光のギャップから来るエネルギーの方です。これは多くの人が実験を積めば、必ず、効果が実証されるものとなるはずです。
なので、これからやってくるのは、やはり光の時代と呼ばれることになるかもしれません。光同士からギャップを得れば、かなりわかりやすいエネルギーを取り込むことが可能だからです。
このことは必ず実証されるでしょう。
私は今、東北での講演があって、合間を見て恐山に行きましたが、不思議な縁があってのものです。
荒涼とした恐山に幾多の思いが飛び交う気配を感じて、私は思わず、母音トーニングをしました。
鎮まっていく気配。本当にありがたい体験でした。
子供と女性を守る最果ての神様、、、お地蔵さま。幾多の罪のない子供と女性が、権力的なものに冷たくあしらわれ、悲惨な死を迎えていった、、、本当に恥ずかしい歴史が私たちの歴史の中にあるのです。
今もなを、それは続いています。戦争の中で、どんなに悲惨な死を迎えねばならなかった女性や子供の多かったことか、、、、このことを忘れて、オリンピックもビルも新幹線も歴史の発展もないのです。
名もないそうした魂がさまよい、なんで自分が死んだのかも、なんで悲惨な目に合わなければいけなかったかもわからず、、、さまよいながら最果ての地に向かう。
そこで大慈悲のお地蔵さまが救ってくださるという、、、本当の聖地が恐山なのです。
安らかに眠ってくださいも、可愛そうにもない、、、言葉はすべて嘘となる恐山の神山の中で、私たちができることは、うめき、、、発声する、、、そう母音のトーニング以外に受け入れてもらえそうなものはなかったのです。
ものすごいリアリティの前では、哲学も倫理も宗教も言葉も何の力を持たない。ただ母音の発声のみが、受け入れられる音になっていく、、、、このことを私は恐山で感じることができました。
戻る時、カラスがやってきて、あいさつしてくれたように感じた次第。カラスさんありがとう。
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