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本当の力は現象を元に戻す力 2016年09月19日(MON)

  あらゆる現象に対して、宇宙はそれを元に戻そうとします。当たり前に見える作用に対する反作用ですが、なんで反作用があるのか、、、考えてみれば不思議です。

あらゆる現象を元に戻す力である反作用に関しては、それがなぜなのか、誰もわかっていません。

ただ、そういう力がなぜか働く、、、というだけ。いえ、それよりも、反作用など当たり前のことで、その不思議さにも気が至らない、、、というのが本当のところだと思います。

風に揺れる葉っぱは、必ず、また元の位置に戻りますし、水を揺らせば波紋が広がりますが、必ず、また元に戻ります。

元に戻るのがあまりに自然なので、そこに力が働いているとはどうしても思えないのです。

しかし、元に戻す力が働かなければ、現象が元に戻ることはありえないのではないでしょうか。

形あるものがそこに存在することは、それを生じさせた何等かの力が働いていることは確実です。

そしてあらゆる形あるものは、いずれまた元の無に戻る運命があります。

すべての形あるものは、必ず元の状態に戻ります。それが作用、反作用です。

物も現象もすべて元に戻る世界を私たちはおり、そこで生きているわけです。

あらゆる物も私たち自身の存在も、必ず元の無にもどることになります。生じた物はすべて無に戻るのです。人も地球も宇宙もいずれは元の無に戻るのです。

存在の継続は、存在するものに、エネルギーが注がれているかどうかで、存在か崩壊かが決まります。

存続するためのエネルギーが枯渇していけば、存在するものは崩壊過程に入り、やがて形をなくし、消えていきます。

あらゆる物質がその定めにあるのです。人間も宇宙すら同様です。

無に戻す力が本当のエネルギーであり、そして無はすべてを生み出す満ちて満ちて満ちているものなのです。

その無が、あったものがなくなるという物的な量的概念でとらえているところに、現代の貧しさがあります。物がなくなるのは、反作用であって、無になるわけではありません。無に戻るだけであり、無そのものは常にあり、すべては無からしか生じないのです。

物が物から生じることはありません。母は子供を自分のおなかで育てたと思いますが、育ててくれた本当の力は無から来ていたのです。

無はすべてを生み出す本当の実であり、そこから生まれた目に見える世界も、やがては無に戻る、有限の世界です。

そのどちらに意識の足場を置くかによって、私たちの人生は大きく変わります。

物には何の力もない、、、、ということが大事で、物に力がないことを受け入れれば、私たちは輪廻する必要はなくなります。

私も本当にわかっているわけではないかもしれませんが、それ以外の答えを見つけることもできません。

では、物には何の意味もないというのか、、、というと、重大な意味があります。

私たちが生まれてきた意味もそこにあるのです。作用を起こす存在として、私たちは生まれているのです。人間にしかできない作用、自分にしかできない作用があるのです。

多様な作用がもたらす反作用によって、私たちは自分たちの世界が作られます。

不自然な作用の集積からは不自然な社会や世界がつくられ、自然な作用からは永遠性のある豊かな世界を作ることができます。

素晴らしい作用に対して、戻ってくる反作用は素晴らしいものとなります。

作用と反作用は一体ですから、必ず、出したものは戻ってきます。

何を戻らすか、、、の責任が作用にあるわけです。私たちにあるわけです。

声を出す、、、声は必ず、反作用によって消えていきます。しかし、その瞬間に反作用は何等かのエネルギーを戻ってやってきます。

ヒステリックな声が飛び交う家で育った子供は、その声が宇宙に消えていく際に訪れる本当のエネルギーを受けますから、そこにいるだけで、不幸です。

慈愛に満ちた声が、すべての人を癒すのは、声自体の力ではなく、反作用が素晴らしいプレゼントとなって、その場を美しいエネルギーに満ちた場にしてくれるからです。

そして、これらのエネルギーは決して計測することはできないのです。現代科学の考えで言うと、ヒステリックな声に満ちた家庭も、慈愛に満ちた声で育った家庭も、エネルギー的には何ら変わったところはない、、となるのですが、そんなバカなことはありません。

人間に影響するに決まっています。戻ってくるエネルギーが違うのですから。

人間には、美しい、本質的な作用を行う責任があるのです。植物や動物たちは自然なことをやりたいのですから。赤ちゃんだって、本当はそうです。段々不自然な作用ばかり行うようになっていってしまうのが、今の人間です。

人の顔は同じものがありません。体もありません。特殊性そのものです。だからこそ、その人にしかできない作用があるという証拠でもあるのです。

同じものを決して作らない宇宙。同じものを絶対につくらない無の創造性。これは多様な作用によってこの世を楽園にすることを目指しているからです。

有限の人間に無限をつくることはできませんが、無限を表現することは可能です。

そして、自然なエネルギーが永久的に注ぎ込まれれば、永遠性のある世を実現することは可能なのです。

圧が高い方にエネルギーは入ります。周辺圧よりも高くしていれば、エネルギーは入り続けますので、その物は崩壊することはありません。意識がもっとも強い圧なので、永遠性のない意識は世の終わりをもたらすことになりかねません。物がすべてだと思う意識は、物の終わりを告げることになります。

このことだけでも、骨が曲がっているからとか、胃が大きいからとか、小さいからとか、、という物質面でのアプローチだけでは、医学もとんでもない方向に行ってしまいます。

すべてをエネルギーの視点からとらえた方が実際に近いのに、形や量的なものの異変を異変と思うから、肉体への対処の医学になってしまうのです。

曲がった松を手術して直立にすれば、松は死にます。それと同じ発想で人間の体をいじられたらたまったものではありません。

シアトルスルーという一本の足が外側に曲がった馬が無敗を続けた年がありました。体の構造からは考えられないことです。

しかし、それもエネルギーの観点から言えば、決して不思議なことではないのです。

あらゆる問題は事象や形骸や物質の異変から生じるのではなく、すべてはエネルギーの不足によって起こるのです。

なので、エネルギーを補充できるかどうかで、その物が崩壊過程に入るか、存続に向かうかが決まります。

極めてシンプルです。

そしてエネルギーは無からしか訪れません。意識からしか訪れません。物には何のエネルギーもないのです。ですが、物を使って作用を起こすことは可能です。

その作用に対して、宇宙は反作用により、本物のエネルギーをこの地上と私たちにもたらしてくれるのです。

すべてはチューナー現象であると飯島先生はおっしゃいました。生きるものや存在するものは、すべて振動し、常にエネルギーを得ているのです。

振動すれば振動を止めようとする反作用のエネルギーがもたらされるからです。なので、すべての現象はチューナー原理なのです。

私が音叉に着目したのは、直観によるものですが、まさにチューナーは振動の作用を起こし、それによって、その振動を止めようとする宇宙のエネルギーを呼び込む装置であったわけです。

何もチューナーが良いという説明ではありません。あらゆる物はすべてチューナー現象によって存続しているということです。

大木の何万枚の葉は、風に揺られてそれぞれがそれぞれの周波数を発生させています。周辺空気との間に複雑なギャップを作ります。そのギャップはさらに他の葉の動きと重なり、影響し合って、より複雑なギャップとなります。

宇宙開百以来、一度としてまったく同じギャップはないのです。

大木の一生は何百年でしょうか。その何百年の一瞬たりとも、まったく同じギャップはないのです。同じ作用はないのです。そうして常に大木は葉の動きを通してエネルギーを吸引しています。葉のない冬には成長は止まるかもしれませんが、今度は大木の微振動によってより高度のエネルギーを得ているのでしょう。

現象が小さい方がよりエネルギー密度は高くなるからです。体を揺すれば誰でもエネルギーを得られます。大きく揺するよりも微振動は一層上質の作用になります。

禅の坊さんの境地なのかもしれませんが、うまく行けば、素晴らしい反作用をもたらすことを彼らはわかっていたのでしょう。

微振動からエネルギーが得られない人は、体を揺すり、金くれよ、、、などと親に向かいます。粗雑なエネルギーしか反作用によってもたらされないからです。

物質がすべてとの思いが強まるほど、荒い振動によってエネルギーを得るしかなくなります。

そして、その荒すぎる作用の副作用によって、人はやがて衰え、そして死んでいくことになるのです。
 




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