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クリスマスの夕べ 2016年12月24日(SAT)

  今夜はイブ。昨日お約束した聖書の話しをいたします。

聖書は旧約聖書と新約聖書の二つの部分からなっていますが、新約、旧約の約とは、約束の約ということなんです。

神様と人間との約束、、、それが聖書。

イエスキリスト以前の神との約束が旧約聖書。イエスキリストが語った内容が新約です。

私はイエスが好きなので、話しはどうしても新約聖書の話しになりがちです。

ドストエフスキーが牢獄で熟読したのが新約聖書で、出獄後、ドストエフスキーはイエスキリストほど愛に満ちた人はいないと、特別な思いを語っています。

私もイエスのファンです。神様と言われる人にファンとはおかしな表現ですが、イエスはいつでも私たちのそばにいるように感じます。

インマヌエル、、、それは神共にいます、、、という意味です。

イエスが常に語ったのは、本質は形ないものにあるということでした。なので、イエスにはこの世的な権力も力も、金も持ち物もありません。

馬小屋で生まれ、何も持たないところからスタートしたイエスの生涯。それは見事な暗喩であり、約束でもあるのです。

この世の物ではなく、見えない世界、見えない真実を常に一貫してイエスは語りました。物やこの世の仕組みには何の意味もないことをイエスは語り続けます。

ある日、イエスは一人の立派な青年から質問を受けます。「主よどうすれば御国に入ることができるでしょうか」と。イエスは心を尽くして神を思えばそうなる、、、と答えます。

青年はそれは一生懸命にやっているとイエスに言うと、イエスはすべてを察してこう言ったのです。「あなたの持っている物すべてを売り払って貧しい人にあげなさい」

すると青年は寂しそうに、イエスから離れていきました。青年は非常なお金もちだったのです。

イエスは「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と語りました。

これは、金持ちがすべて天国に入れない、、、というのではなく、この世的なものの力によって立つうちは、神の国には入れない、、、ということを語っている比喩だと思います。

金持ちだろうが貧乏だろうが、同じ人間、、、とつい私たちは考えますが、イエスは人の弱さをよく知っていて、金持ちの自己肯定感は、物や力など目に見えるものに寄っているから、見えない世界を見ることができないと考えたのです。

もっと言えば、金持ちと貧乏ではなく、この世の形に囚われているうちは神の国に入れない、、、の比喩なのです。

ただ、貧乏になった時の方が気づきの可能性は高くなりますよね。なので、イエスはこの世的な不幸を決して悲しみません。

それは、そうした不幸がきっかけとなって人を気づかせることを知っており、本当のスタートに近い幸福を思うからです。

悲しんでいる者は幸いである、、、貧しい者は幸いである、、、苦しんでいる者は、この世的なことに苦しんでいるのです。しかし、この世の本質が目に見える物でないのなら、それに不足し、苦しむとき、それは神の国の入り口に近いということになります。

イエスは常のそうした人の背中を押してあげようとします。地方に行けば、どこに泊まるか、、イエスは必ずと言っていいほど、その地でもっとも嫌われている人の家に泊まろうとしました。

取税人、、、ローマに税を渡すために人々から税を取る取税人ほど嫌われる商売もなかったことでしょう。

取税人も自分がひどい仕事をしているから、救い主イエスが村に来ても、自分が表立って話すことなどできっこない、、、と思っている。

そして、目立たないように木の上に登り、一目でいいからイエスを見ようと思う。

何と、イエスはその前を通るとそこで足を止められ、こう語るのです。「今宵私はあなたの家に泊まろう」と。

まさにイエスは愛の人なのです。

ある泉から何年に一度だけ泉が大量にわき出し、わき出したその水に触れるとどんな病気も治る、、、と言われる場所がありました。

イエスはその場で、ある足の悪い病人に出会います。

病人は常に泉のそばにいるのに、何年たっても泉に触れることができずにいました。

それは、病人よりも足の速い人がその人を押しのけて先に泉に入ってしまうからでした。

イエスはその話しを聞くと、「治るがよい」と言われてその足をお直しになる。

ある場所で女がうずくまっているのをご覧になったイエスは、皆に何をしているのか、、と尋ねました。

すると人々は「この女は罪を犯したので、これから石打ちの刑にあうのです」と。

イエスは女のそばにより、「まず罪のない者がこの女に石を投げなさい」と語られる。

すると人々は一人去り、、二人去りと、ついには一人もいなくなる。イエスは女に「あなたを罰する人はいなくなったようだ、、私もあなたを罰することはしない。行って元気でいなさい。二度と罪を犯さないように」

とにかくイエスは一貫していました。何を大事にしたか、、、体を癒す際にも、治してあげる際にも、体を治すのではなく、見えない意識を変革させていたのです。

見えないところにある真実と本当の力、、、イエスの生き方の革新性はそこにあったのです。

「すべては神が与えてくださる。そこの野の花を見るが良い。明日は炉に投げ入れられるかもしれない野の花でさえ、栄華を極めたソロモン以上に着飾ってはいるではないか。

ましてや、神はあなた方にそれ以上にしてくださらないわけがない。

だから、何を着ようか、、、何を食べようかと思い煩うことはない。明日は明日自身がわずらうであろう。

その日一日の苦労はその日一日で十分である。」

イエスの言葉はまだまだ続きます。今宵のクリスマスは、イエスがすでにこの世を救ってくれたお祝いの日。

実際に今日であったかどうかは知りませんが、イエスの存在は、すでにこの世が救われたということであり、そのお祝いが聖夜なのです。

最後に私から皆さまへのプレゼント。きよしこの夜ですが、共に歌ってくださったミス エリコ・トクラは、アメリカのプレジデントの前でも何度も歌っている有力なソプラノ歌手。

本日、SHOPにいらしてくださった記念に、一緒に歌わせていただきました。

世界的なソプラノ歌手とデュエットできる最高のプレゼントをいただきましたので、皆さまにお届けさせていただきます。

ささやかな二人からのプレゼントです。では、皆さまメリークリスマス!

 




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